仏教 興隆 の 詔
推古2年の記事は「推古天皇が聖徳太子と蘇我馬子に詔 ( みことのり) を下し、皇太子及大臣が臣・連に三宝興隆を命じた。 そうすると多くの臣・連が、競って佛舍を作った。 」という内容で、「令興隆三寶」とは「寺を造れ」という命令だろう。 推古32年(624年)の記事には、「寺を調査して各寺の縁起を記録した。 そのとき寺は46ヶ所あった」とある。 石田茂作氏は文献と古瓦の編年的研究により、飛鳥時代に創立したと推定される寺を『飛鳥時代寺院址の研究』に41ヶ所掲げている。 その内36ヶ所の寺院が大和・山城・河内・和泉・摂津・近江と飛鳥の近隣にある。 当時の命令は何によりなされたのであろうか。 紙・木簡それとも口頭なのだろうか。推古天皇が日本史上最初の女性天皇として即位され、推古二年(594年)には『仏法興隆の詔(みことのり)』が発布されました。 これによって、諸部族間の対立を緩和し、民衆の生活の倫理性を高めるために、仏教を政治の基調として置くという、推古朝の方向性が明確化されます。 そしてその後、推古十一年(603年)には「冠位十二階」が制定され、続く翌年の推古十二年(604年)には「十七条憲法」が制定されました。 これらの施策によって、朝廷を規律的に組織化することで、天皇を中心とした中央集権国家の建設が推進されます。 推古十四年(606年)には、聖徳太子が推古天皇に「勝鬘経」を講義されたことが『日本書紀』に記されています。 勝鬘経は、在家の女性信者が釈尊の承諾を得ながら仏教の深淵なる法を説くという経典です。
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