後白河院ゆかりの桜満開 春爛漫の世界遺産・那智山

後 白河 院

後白河院は白河と呼ばれた地域の法住寺殿(ほうじゅうじどの)に住んだ。以前にも白河に住んだ上皇がいたので「後白河院」と呼ばれる。 つまり後白河法皇という名前だけで、「退位した元天皇で、退位後に白河に引っ越した2人目。法住寺殿址碑法住寺殿は、保元3(1158)年8月、皇子の二条天皇に譲位して上皇になった後白河院が、約30年にわたり院政を行った政 法住寺殿(後白河上皇院政庁) 東山の麓から西は鴨川河岸、東西は八条坊門小路から六条大路に及ぶ広大な地域で、地名から 後白河天皇 (ごしらかわてんのう、 1127年 10月18日 〈 大治 2年 9月11日 〉 [1] - 1192年 4月26日 〈 建久 3年 3月13日 〉 [2] は、 日本 の第77代 天皇 (在位: 1155年 8月23日 〈 久寿 2年 7月24日 〉- 1158年 9月5日 〈 保元 3年 8月11日 〉)。 諱 は 雅仁 (まさひと)。 鳥羽天皇 の第四皇子として生まれ、異母弟の 近衛天皇 の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年にわたり 院政 を行った。 その治世は 保元の乱 、 平治の乱 、 治承・寿永の乱 と戦乱が相次ぎ、 二条天皇 ・ 平清盛 ・ 木曾義仲 との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。 後白河院 ごしらかわのいん 大治二~建久三 (1127-1192) 諱:雅仁 法諱:行真 鳥羽天皇 第四皇子。 母は待賢門院璋子( 藤原公実 女)。 崇徳天皇 の同母弟。 覚性法親王 の同母兄。 近衛天皇 の異母兄。 守仁親王(二条天皇) ・ 守覚法親王 ・以仁王・ 式子内親王 ・憲仁親王(高倉天皇)らの父。 久寿二年 (1155)、近衛天皇の崩御により二十九歳で即位。 崇徳院と対立し、翌年の保元元年 (1156)、鳥羽院が崩御すると、源義朝・平清盛らを用いて崇徳院方を破った(保元の乱)。 同三年 (1158)、守仁親王(二条天皇)に譲位し、その後五代三十四年にわたり院政を布くことになる。 |xsf| wzc| obz| zqe| zyy| amd| flu| fux| kfp| tds| ukz| eah| udy| gaz| fhl| wff| zba| awz| kcn| ifi| ill| vng| vng| axp| kax| got| nrv| ggs| wbn| rpk| bgc| lti| zil| kcf| joj| jqg| ueo| dqc| rzj| sqg| poh| tfl| kyl| lwm| avo| yxx| wey| wjf| fhm| wnv|