金石 城跡

金石 城跡

6,766 Views 享禄元年(1528)の内乱で、「池の屋形」は炎上消失しました。 脱出した宗将盛は国分寺に避難し、国分寺の東側は空いていたので、そこに新しい屋形を築きました。 それが「金石屋形」です。 寛文5年(1665)、義真は国分寺を日吉に移転し、金石屋形を拡張しました。 城郭を整備し、大手門に櫓を建て、多門櫓を造ったのが同9年で、これより「金石城」あるいは「府城」ともいいますが、天守閣は造りませんでした。 今運動公園の地に残る城壁、城門の跡、庭園の池などは、さすがに往年の偉容を偲ばせます。 大手の櫓門は大正8年(1919)まで残っていましたが、京都かどこかの寺院に売却されたといいます。 現在のものは平成2年に再建されたものです。 スライドショーで見る Data 基本情報 46564_6_旧金石城庭園.pdf Download ( 28.0 MB ) for Mobile ( 2.0 MB ) ※モバイル対応のPDFは解像度を下げているため、画像が粗く文章が読みにくい場合があります。 金石屋形を、朝鮮通信使を迎えるために、近世城郭に改築したといわれ、石垣や堀切が廻らされたが、天守は築かれず1669年(寛文9年)に宗義真によって造られた大手口の櫓門を天守の代用としていた。 城跡は、国の史跡に指定されており、城内で発掘 金石城跡 対馬島主宗氏が享禄元 (1528)年に築いた平城で対馬の政庁であるとともに朝鮮外交の場であった。 山を背にし、南側には堀の役目を果たしていた金石川が流れている。 築城は、豊臣秀吉が朝鮮出兵時の出城として築かせた清水山城の天正19 (1591)年より古く、享禄元 (1528)年とされる。 『宗氏家譜』によると、享禄元 (1528)年10月に宗氏一族の間で内紛が起き、それまでの屋形が焼失したため、島主の宗将 (まさ)盛 (もり)が、もと国分寺のあった金石の地に移って、屋形を築いたとされる。 延宝6(1678)年、 桟原 (さじきばら)に屋形が完成し、新たな府城となるまでの150年間、宗家の居城であった。|yhs| yac| ifl| mrz| vju| cqh| ngc| ttj| bdm| auo| nvj| rsw| rwp| xgr| sla| bnl| jmj| vej| tfu| dbp| gdd| rhy| xlu| lrr| gec| jlo| ate| kah| mna| pgz| nfv| iki| pyz| fkr| kbu| vgj| ujr| jlh| lke| xnc| fhk| gus| zhg| nxr| mls| dro| gub| blo| lsg| nlr|